週刊「ダイヤモンド」(1997/8/16,23合併号)
オピニオン縦横無尽(櫻井よしこ著)



「シベリヤの土に眠りて幾歳(いくとせ)ぞ...」
戦争未亡人の想い、遥かに
 鈴木房枝さんは今年4月21日、75歳の生涯を閉じた。運命に耐え弱音をはかず、前向きに生きた人だったと、ひとり息子の康弘さんや知人は述べた。
 若くして夫の福次さんをシベリヤでなくした房枝さん。戦後はお茶、書道、鎌倉彫の先生をしながら康弘さんを育て上げた。敗戦国日本の、乳呑児を抱えた未亡人には多くの苦労があったに違いない。「でも、先生はいつも明るくてすばらしい人でした」と、書を学んだ弟子の一人、浅野益男氏はいう。
   「先生を支えたのは、亡くなった御主人との心の通い合いだったと想います」
康弘さんも述べた---「母は霊感の強い人で、いつも父の霊というか存在を身近に感じていたようです」
          お二人の話はこうだ---房枝さんは戦後の復興がすすむにつれ、シベリヤの凍土に眠る夫、福次さんの墓にどうしてもお参りしたいと考えるようになった。ある時点から、墓参が人生の目標のようになってきたそうだ。
 その想いが実現するきっかけは7年前の1990年に遡る。当時のソ連の為政社、ゴルバチョフ書記長は来日の際、シベリヤに眠る日本人兵士5万人の名簿を持参した。その名簿の一部を掲載した「アサヒグラフ」に、房枝さんは夫、福次さんの名前を見つけたのだ。「スズキ フクジ」と片仮名で書かれた夫の名前を見つけて、房枝さんは狂喜したという。

 「これ以前に、母はソ連大使館に何度も手紙を出して墓参の許可を求めていたんです。結論からいえば東北の方々を中心に50人の墓参団が結成されました。戦友と未亡人とおよそ半々のグループになりました」と康弘さん。
  年長者が多いので医師も同行して出かけた。ナホトカから鉄道で行くのだが、ソ連側の宿泊施設などが限られているため一行の訪問先もまた限られていた。その意味では夫の眠る場所、戦友の眠る場所にお参りしたいという50人全員の願いは必ずしも叶えられるとは限らなかった。

 房枝さんは戦死広報で福次さんがチタ州ノーバヤ収容所で亡くなった事は知っていたが、一行の旅程にノーバヤという小さな村が入っていないことは承知していた。
 ところが、皆で移動中、房枝さんは急に気分が悪くなった。同行の医師が診察すると、高血圧とは無縁だった房枝さんなのに血圧が上昇し、安静にしなければ危険な状態であるとわかった。急遽、房枝さんだけが最寄りの町で降ろされることになった。
 一人だけ置いていくのは不安なので戦友の一人が付き添いで残ったが、房枝さんは気が気ではなかった。皆といっしょに、とにかく墓地にたどりついてお参りをしたかったのだ。それが出来ないのが口惜しかった。

 だが、一行から取り残されて、現地の人に夫の眠る場所として「ノーバヤ」という地名を言うと、驚いたことに、ノーバヤは、そこから車で暫く走ったところだと言うのだ。房枝さんはその瞬間に悟ったであろう。突然の体調の変化は夫の霊が呼んでくれた結果だと。彼女は戦友と共に車をチャーターし、夢中でノーバヤに向かった。
 ノーバヤにはロシア人墓地があり、その裏側に草原が広がっていた。生い茂る夏草におおわれながらも、日本人兵士がその下に眠る土饅頭が、いくつも確認された。

 「福次さ〜ん」と、房枝さんは大声で呼び続けたという
 どれほどの想いがこめられていたことか。戦後50年近く、歳月の一瞬一瞬を限り無く重ねながらも、いつも心の中でその名を呼び続けたであろう夫が、いまそこに眠っているのである。熱い涙が頬を伝わった。

 シベリアの土に眠りて幾歳ぞ
  陽当たりし丘 家もあるもしらず

と詠んだ房枝さんは、持参した花を、土の墓の一つに供えた。
 夫に見てほしくて自宅の庭の花を持参していたのだ。
「母が亡くなって、まだ日記を読むのもつらいんです。母の想いや体験をもっと知って、語り継ぐのが僕の責任だと思います」
 康弘さんだけでなく、私たち日本人は、もっともっと歴史を語り継いでいきたいものだ。(ジャーナリスト*櫻井よしこ)

亡き母の介護日記です。
超高齢化社会に向い、なんらかの参考になると思います。
在宅老人介護

 

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